いつの間にか金木犀は枯れ、桜の葉が赤く色づいてた。
僕の一番好きな植物は金木犀で、どこからともなく漂うあの香りがたまらなく愛おしい。振り返ればそこにいるみたいな、控えめで、それなのに強く主張する様は、まるで僕のようだ。そんな金木犀の時期は短くて、秋の始まりを告げると、間もなく枯れていく。
夙川駅。川に架かる橋のような駅のホームから、夙川の土手沿いを眺めていると、季節の廻りが見て取れた。
日本桜百選にも挙げられる桜の名所はこの季節になると、赤くて香しい秋を演出する。
夙川が本当に美しいのはこの季節なんだと、住んでいる人間にだけわかる贅沢を見つける。
暑い夏を過ぎ、少し涼しくなってくる。何人かの人が足を止めて、秋を感じている光景が、じんわりと僕に迫ってきた。
ああ、もうこんな季節か。ベンチに座って、コーヒーか何かを飲みながら読書でもしたいな、なんて、何年も前から感じている同じような感想を得て、自分の精神の成長のなさを感じた。
いつどこで、何をしていたからといって、人間はそうそう成長しないようだ。
少なくとも僕は成長していないようだ。
暖色系で温かみのある秋の景色がもたらすのは、そんな仄かに苦くて甘い、無糖のカフェオレのような感慨だ。
僕が住む家の周辺の季節もやはり廻っている。
僕たちは、この場所に引っ越してきて1年も経っていない。
だから、廻っているのかどうか、を知れるほどこの辺りの景色になじみがあるわけじゃない。
来年以降、この景色を眺めながら、過ごしていく時間の経過と季節の巡りを実感していくのだろうと思う。
この辺りには、田んぼと畑が多く、稲だったり野菜だったり、果物も栽培されているから、季節感はきっとよく分かる。
つい先日に植えられたばかりと思っていた稲が、刈られた。
田植えから稲刈りまで、時間が一息に過ぎていたことにびっくりしていた。
来年も同じ光景を見るのだろう。
こういったことが、季節の廻りを感じられるピースになっていくのだろう。
植物はこの世界が循環していることを、無言で教えてくれる。
それにしても稲の成長は早い。約4か月弱で成熟して刈り入れられる。
あんなに小さかった苗が、気が付くと頭を垂れている。
青々として、風に吹かれた爽やかな光景は、金色で厳かな景色に代わる。
世界が遅々として進まなくても、稲だけは、独自の世界で強く育っている。
通勤のとき、この光景を毎日眺めては、一日また一日と変わる稲の不思議を感じ、わが子の成長はいかほどか、と考えていた。
子供の成長って本当に凄い。
あんなに小さかった赤ん坊が、いまやお気に入りのぬいぐるみを抱きしめては、人形と会話して2人の独自な世界で遊ぶほど、である。
父は秋の景色を見ながら毎年同じことばかり考えて、全然成長していないのに、である。
長女は自分がプリンセスだと信じていて、次女は長女を観察して、自分の世界を構築するための参考にしている。
長女が好きなのは小ぶりで白いうさぎのぬいぐるみで、次女は白い顔と体に緑の耳と手と足の犬型ぬいぶるみがお気にいり。
これを見せれば大抵のことが解決する。
素晴らしきかな、ぬいぐるみたち。
長女はおしゃべり好きで、いつでも自分の話を聞いてほしいし、次女も言葉を理解している。
何々してね、と言うと何々をする。
僕が言うこと全てを理解するわけではないので、時折きょとんとして、考え込む。
2人には2人の独自の言語体系が仕上がりつつあり、僕はちゃんと大人に説明するのと同じような、さながら国語辞典のような説明をする。
基本的に活発で、よく動きよく笑い、すぐに泣く。
ご飯を沢山食べる。
時には何が気に食わないのか、ご飯を食べない。
じっとしていることは苦手で、絵本をめくるのが大好きだし、少しずつ自分で読めるようになってきた。
うさぎのぬいぐるみや、犬型のぬいぐるみを抱きしめては、嬉しそうにする姿や動き回る姿、絵本をめくる手、僕に話しかける姿を見て、もうそんなことができるのか、もうそんなことが分かるのかと、毎日感動している。
稲の話に戻る。植物の一生は短い。その中での成長は、人間に換算すると、どうなんだろう。
人間の一生を80年と仮定して、稲が植えられてから刈り入れられるまでの4か月とを比較すると、1か月は約20年、1日が1年弱となって、そりゃあ日ごとに稲がみるみる変っていくわけだと思う。
1日1年の濃縮された時間を過ごし、捕まえることができないくらいに速く、みるみる進んでいく。
しかし、稲はゴールに向かってただ進んでいるのではない。直線運動のその先へ向かっているのでないのだ。
稲は米となって、僕たちのお腹の中に納まっていく。
子供を成長させ、僕をさらに太らせる。
おにぎりになるのなら、お出かけの最強の仲間になり、父が作るスペシャルピラフになれば、それがスペシャルな一日を演出する。
1日1年の流れは、僕やこの子たちの中で、一生を作り出す。
巡る季節が、圧倒的な稲の成長の速度が、命を循環させる。
稲の成長とわが子の成長を重ねてみた。
1日で1年を過ごすような急激な成長の中に、つながっていく意思を感じる。
そんなことができる自分を見つけた。
ここで初めて感じる僕の成長。
子供と稲と僕。
親になることは成長なのではなく、一緒に成長していける存在と出会う奇跡を見つけることだ。
親が子供に思う、一つの感慨。
誰もが皆、そんな風に見守られている。あなたも、それは僕にしたって。これも命の循環の一つ。
「キミがそこにいたのは、この時を待っていた、そういうことかい?」
「そうとも言えない。僕は多くの景色を見てきたし、多くの感想を持ってきた。そこには意味があった。だけど、進むには十分じゃなかった。そいうことだと思うんだ」
24時間前には雨が降っていた。
僕の人生は遅々として進んでいなかった。
夢を見ることも忘れていた。
しかし、突然雨が止む。
太陽の光が差し込み、色とりどりの花を照らしてゆく。
雨のしずくはきらりと光り、そしていずれ蒸発して大気へと還ってゆく。
キミたちが現れて、花の香りと大気に戻った雨の名残を大きく吸い込んだ。
長い長い、決して終わらないと思っていた1日が、凄まじい速さで明日へと動き出す瞬間がやってくる。
そんな毎日を過ごしている。
「いいじゃないか。この先も、キミが見る風景は流れていく。時には同じ風景が見られるかもしれない。全く見たことがない景色に触れることもあるだろ」
「そう在りたいと願っている。それは僕にでなくて、2人の子供たちに」
今キーボードを打つ僕の手を、小さな手が邪魔をしている。
ディナ・ワシントンが、奇跡のような瞬間を謳い、心地よい旋律が部屋を満たしていた。
またお目に掛かりましょう。