等間隔に並んだオレンジ色の灯が一つまた一つと後ろへ、時速100kmで流れて行く。
僕は、夜の高速道路を走っていた。時折見かける大型トラック以外に、すれ違う車もない真夜中。サービスエリアにだって誰もいなのではないかと思えるくらいに、僕は一人だった。
目的地はない。ふと、高速道路を走りたいと思った。
理由はいくつもあったし、全然理由なんてなかった。
もしかしたら、月がとても大きくて綺麗だったからかもしれないし、少し便秘気味だったからかもしれない。何よりも理由なんて必要なかったのかもしれない。深く考えるほどのことなんて、何一つなかった。僕にできることは、全部片づけてきたのだから。
男が1人で、高速道路を当てもなく車で走っている。
何かを思い出しそうな、感傷的なシチュエーション。誰も喋らない車内には、防音壁で反響するロードノイズだけが聞こえていた。なんだか心がざわついた。
何か音楽が聞きたかった。
僕は、カーラジオのスイッチを入れた。
※
「もしも、時間を戻せるとしたら、いつにもどりたい?」
何を切っ掛けにそんな会話をしたのか、今となっては全然思い出せない。
僕とキミは、オレンジ色のマーチに乗っていて、僕が運転していたかキミだったのか、右か左か、いずれにしても隣からキミが聞いた。
当時、まだ20歳かそこそこの僕たちに、時間を戻してまでどうにかしたいような、決定的な瞬間なんてなかったんじゃないかと思うのだけど、それでもあの時かこの時か、と考えていた。
「そうやなあ……」
彼女は短大を卒業したあと、僕が住むまちから地元へ帰り、幼稚園で働きながら過ごしていた。オレンジ色の日産マーチは彼女が就職記念に買った車だった。記念ということもあるし、田舎で暮らすのに必要不可欠だったということもあった。とにかくオレンジ色のマーチを買った。
僕はまだ大学生で、月に1度か2度、彼女の地元へ遊びに行っていた。その時、彼女はオレンジ色のマーチで迎えにきたものだった。
彼女の地元では海沿いのカフェがあり、山には古いうどん屋があった。少し足を延ばせば、もう思い出せないくらいシンプルなテーマパークがあり、高速バスのバス停では様々な店が軒を連ねていた。
その日、オレンジ色のマーチは、小さな半島にある山の山頂を目指して、クネクネとした道を登って行った。映画の舞台になった無人島を、展望台から見ようって寸法だった。
その映画では無償の愛と別離、別離がもたらす成長が描かれていた。
映画の登場人物たちには、時を戻したい瞬間があっただろう、と口には出さなかったけど、そんなことを想っていた。
たわいも無い会話だったけど、とても楽しかった。
カーラジオから音楽が聞こえていた。
確かに、愛こそ全て、と歌っていた。
山頂に着いた。
海に臨む、小高い丘のような山頂には目的の展望台があり、ベンチが何脚かならんでいた。
何人かの観光客がいて、それぞれにそれぞれの過ごし方をしていた。
目的の島はとても小さく、そこから見つけることはできなかったけど、きっとあっちの方角だ、あの辺りかなと、あてもなく探す時間はあっというまに過ぎていった。
「さっきの話しやけどさ」
「え?何の話し?」
「ほら、時間を戻せたらどうだ、とかいう」
「うん、あの話し。それがどうしたの」
「僕はこのままでいいかなって」
「え?」
「時間を戻して、ああだこうだと色々変えるとするやん」
「うん」
「そしたら、もしかたら、キミに出会えない未来が来たとしたら、それは嫌やなって」
海の向こうに島が見えた。それがあの島かどうか分からなかったけど。
夕暮れ時だった。強い夕陽に照らされた彼女の顔は、モネの黄昏みたいだった。
彼女の顔立ちではなく、美しい光景だと、思った。
誰かが何かを囁いていた。彼女の声ではなかった。
その声は、愛こそ全て、と言っているようだった。
数年が経った。僕たちの間には言い争いが増えた。
とっても些細な事だった、と思う。もう理由なんて全然思い出せない。それくらい小さな事だったのだろう。
すれ違い。ただすれ違っただけだった。このまちと彼女まちの間には、すれ違いを生むのには十分な距離があった。
ちょっとした不具合で、例えば体調不良だとか、そんなことで会う予定がなくなれば、その分だけ輪郭がぼやけていった。
彼女の笑いは、少しずつ表情が見えなくなり、僕のそれもきっと彼女には見えなくなっていっていたのだろう。とても愛おしく思う気持ちさえも。
あの日、雨が上がった夜の公園で。
キミが電話を切ったすぐ後に、今のは嘘だ、と電話をかけ直していれば、現在とは少し違った「今」があったのかもしれない。
もしも時間を戻せるとしたら、その時だろうか。ベンチにただ座り呆然とする僕に語り掛けた。
いや、それでも僕は、やっぱり時間を戻さない。
電話をかけ直さなかった、あの時と同じ気持ちで。
キミは今、元気だろうか。たまに大笑いしたり、時々泣いたりしているだろうか。
誰かと愛を囁きあったり、子供を育てたりしているだろうか。
幸せだろうか。
きっとそうだろう。
だから僕は、時間を戻さなくて良かったと思う。
愛こそが全てだったあの頃を、思い出した後の最良の選択。
僕が年を重ねる毎に、キミと過ごした時間の縮尺は短くなっていく。
「じゃあ、また」と言って、手を振るバス停の景色。
「久しぶり」と言って、手を握った港の匂い。
僕が年を重ねる毎に、忘れて、削られて、そしてその度に思い出す。
波打ち際に描いた絵を、波に消されるたびに、何度も、何度も描き直すように。
もう原形を留めていないその絵を見るたびに、聞きたくなるのはビートルズ。あの日、カーラジオから流れていた、あの歌を。
そして、僕はくちずさむ。
愛こそ全て、と。
※
なんて事を思い出す、午前0時の高速道路。
僕はカーラジオのスイッチを切る。
夜の高層ビル群の景色が目の前にあった。
次の街へたどり着いたようだった。随分遠くへ来たような気分だった。
胸のざわつきは、ある種の懐かしさに変わっていた。
車はあまり行き交っていなかった。夜中の高速道路。
反対車線も、同じように少ない交通量だ。ただ、時折ヘッドライトが僕の顔を照らしていく。
反対車線に視線を送った。
オレンジ色のマーチが、僕の前を通り過ぎた。
また、お目に掛かりましょう。